長崎街道

原田宿へ
~原田宿の名物「はらふと餅」と粥卜祭~

 筑前六宿のひとつ原田宿は、筑後・肥前と接した国境の宿場です。原田宿がいつできたのかは、正確にわかりませんが、1638年の1月1日に島原の乱の鎮圧にやってきた軍勢が原田に宿泊したことが記録されているため、このころにはすでに宿場ができていたと考えられています。
はらふと餅屋の店先(『田嶋外伝浜千鳥』1858)
▲はらふと餅屋の店先(『田嶋外伝浜千鳥』1858)

 この原田宿で当時有名だったのは「はらふと餅」と呼ばれる食べ物です。この付近には三国坂(峠)と呼ばれる急峻な山がありました。「はらふと餅」が原田宿の名物といわれたのは、この坂を上り下りするために腹ごしらえをする必要があったからといわれています。一説によると、原田宿から山家宿を過ぎて、長崎街道で最大の難所といわれた冷水峠を越えるための準備であったともいわれています。いずれにしても交通の要衝である筑紫野を過ぎるには、両所を通らなければならなかったわけで、餅の売れ行きもよかったのではないでしょうか。 

 当時の「はらふと餅」はお腹いっぱいになるといわれた塩餡入りの餅だったと想像されています。現在は、販売しているお店が途絶えてしまい、その味や大きさを見たり、食べたりできないのが残念です。

国号の由来になった筑紫神社
▲国号の由来になった筑紫神社

 原田宿のある筑紫野市には、筑紫神社があります。この筑紫神社は市内ではもっともの古く、「筑紫」という国号の由来になったともいわれています。

追分石。筑紫野市歴史博物館で常設展示されている
▲追分石。筑紫野市歴史博物館で常設展示されている

 こちらでは、3月15日に「粥卜祭(かゆうらまつり)」という珍しい神事が行われることで有名です。

 この祭りの1ヶ月前の2月15日の早朝、正月に奉納されたお捻りの米を持ち寄って、神官が粥を炊いて鉢に盛りつけます。宮座で使った箸で粥面を東西南北の十文字に分け、筑紫神社を中心に東は豊前、西は肥前、南は筑後、北は筑前という名札を立てます。

筑紫神社を中心とした4つの地域の名札が立てられる
▲筑紫神社を中心とした4つの地域の名札が立てられる

 神殿の中で30日を過ごした粥鉢は、3月15日未明になって神前から下ろされ、カビの色やはえ具合を見て、稲作や麦作の豊凶、害虫や風水害、伝染病など多岐に渡って判定します。黄色を帯びたカビは、稲作極上の吉。カビの毛の短いものは、稲作の吉。紫色は麦作の吉など…。

 農業社会では豊作か凶作かは重大なことだけに、筑紫神への願いも強かったのでしょう。筑紫神社では当時の市民の生活や長い歴史の変遷を感じることができます。

次は、田代宿へまいります。


長崎街道を歩こう!

【原田宿】
○江戸時代の国名/筑前国
○現在地/福岡県筑紫野市原田一帯
○アクセス/
  電車…JR筑豊本線(原田線)原田駅下車。徒歩5分
  電車…JR鹿児島本線 原田駅下車。徒歩5分
  車…九州縦貫自動車道 筑紫野ICから 10分
○まつり/筑紫神社粥卜祭(3月15日)

【筑紫神社】
○所在/福岡県筑紫野市大字原田2550
○開館時間/参拝自由
○駐車場/あり
○アクセス/
  電車…JR鹿児島本線〔原田駅〕を下車し徒歩5分
○お問い合わせ/092-926-5443

【参考】
筑紫野市歴史博物館HP http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/

【参考文献】
『長崎街道を行く』 著/松尾卓次 発行/葦書房

【写真&資料】
筑紫野市歴史博物館